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ダンケルクを見ました

 

 ダンケルクを見ました。

私は普段、戦争映画なんかは絶対に映画館で見ないと決めているのですが(大きい音が嫌いなため)、なぜかダンケルクは絶対に映画館でみたいなあと思い頑張りました。

 

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ダンケルク、構成等全く前知識を調べずに見たのですが、時間軸が空と海と陸、大きく別れて3つあります。3つの微妙にずれた時間軸が平行して展開するので、初めはあれっと思いますが、段々慣れますし、最後にはその手腕に感心するばかりです。映画館では見ないだけで、第二次世界対戦に個人的に興味があるので、私は結構戦争見ますが、この映画は大分特異だなあといった印象を受けました。 

普通戦争映画といえば、主人公の姿を追いつつ戦場を描くみたいなのが基本だと思うのですが、3つの時間軸のなかにはそれぞれ中心の核となる人物がおり、やがて海・陸・空の人々と運命が交差するような形はあまり見たことありませんでした。

例えば、船が航海してるなか航空戦が行われており、英国航空機が敵軍撃墜ののち海面に着水し、船は着水地点に向かう。時間は少し前に戻り、空軍視点で英国航空機と独の空中戦が描かれる。さらにその頃、数日前の海岸線では………といった事の繰り返しです。これがまたスリルを生み、目をそらすことのできない程の緊迫感を助長させていました。

また、戦争映画で目をそらせないのは個人的に全く新しい展開でした。映画とはいえ残酷な描写を好んでみたいわけではないので、戦争ものは一回は目をそらしてしまうしアメリカスナイパーなんかは耳を塞いでたんですが、ダンケルクは特に目立った残酷シーンがあるわけではないです。

ただ、疲弊し故郷を切望する兵士たちの顔や帰りたい一心でがむしゃらになる様子、一瞬の安堵からの阿鼻叫喚、恐怖にわななく気持ちといったものが痛いほど伝わるので、彼らの一瞬一瞬から目が離せません。特にしばらくは船底には行けなくなるほどでした。魚雷なんてものは音楽も音律あるものというより、時計の音や風の男に、もしかして敵の航空機の音では?といった過敏になってる恐れを誘発するようなもので、余計に焦燥感を煽ります。だからこそ希望が見えたときはこちらも歓声を上げたくなるような祝福に包まれるのです。

加えて、映像がとても美しいですね。戦闘機が旋回するなかで映し出される霞のかかった青い空、どこまでも続いて見えるような空と海の太陽の輝きを受けた最果ては、いつまでも見ていたくなるような美しさです。独特の色合いは、これぞノーランのフィルム撮影によるものなのでしょうか?戦闘機が撃墜され煙を噴出して落ちていく様も、不謹慎にも見惚れる心地でした。そんな美しい海に重油と人間が漏れだす有り様は地獄の心地です。褪せた色合いに荒れる海、吹き付ける風の強さに、磯の香りをかいだような気がしました。

 

これは全くの妄言なんですが、こういった実話ベースのお話って能を見てる気分と似ていると思っています。とある出来事や人物かが存在し、誰かを主人公と定め、自分の解釈で自分なりに筋道を作成し役者が演じる。歴史的出来事によっては何度も題材として映画に取り上げられたりなんて事は珍しくないです。能は鎮魂と奉納・祝福が大きな役割ですが、戦争映画なんかはこういった側面がなにかないとただのグロい映像にすぎなくなってしまうので難しいところですね。歴史的にこんな事があったということだけを知りたいだけなら、別に映画を見る必要なんて全くないんです。個人の主観なんですけど。

散っていった人々の鎮魂、生き残った者への祝福、特に終盤「わたしたちの国が見える」と、人間に国を見た際なんかはこの映画には大いなる祝福が込められているのを感じ、胸を突き抜けるほどの喜びがありました。汽車から差し込む朝日の、なんと柔らかなことか、憂いなき子供の声の眩しいことか、特別な何かを成し遂げなくても、それだけで生きる祝福に思えて止みません。

ヒトラーへの285枚の葉書を見ました

ヒトラーへの285枚の葉書という映画を見ました。
第二次世界大戦期のベルリンを描いた映画で、一人息子の戦士をきっかけに街中に体制批判を記したカードを置き続ける夫婦の話です。


100分弱といった、最近の映画にしては短い時間の内、あまり物足りなさや冗長さを感じずに鑑賞することができました。
作中ずっと漂うサスペンス的な緊張感と、抑圧されたような雰囲気がそうさせたと思います。
単純に映画として、圧倒されるような何かや、突き動かされるような感動を得るような作品ではないのですが、思ったことを少しだけ残します。ネタバレもまあまああります。

この夫婦の活動は、世間で大きく取り上げられる絵にかかれたような「万人が納得できる動機」があり「打倒政権」を掲げ「周囲を巻き込んで改革を図る」ようなものではなかったように思います。
今まで漠然と漂っていた死というものが突然現実のものとして自分達に振りかかり、今まで見ていたものが突如として白けたもの、欺瞞に満ちたもののように映る。目が覚めてしまったような感覚、やりきれない気持ちが中央政権に向き、言わずにはいられなかったためにやってしまった。そうしてる内に後から役割が付随し、市民をより同調する性質を帯びたように見えました。
夫の働く工場は、冒頭はただ木材を切るだけで何を生産しているかはわかりかねるのですが、そのうちに棺を作っていくことがわかります。
可愛いベルリンの街が崩壊していくにつれ多くの棺が街を闊歩します。今まで意識しないようにしていた死の気配がそこらじゅうを覆い、嫌でも滅びの予感を感じざるを得ない雰囲気になります。
それでもやはり、あの夫婦には大規模な政権打破のクーデター等を心からは望んでいなかったように思いました。
彼らが息を潜めるように、親衛隊の目を掻い潜り置き続けた285枚の手紙は市民同士回されることなく、政権を恐れた市民によりほぼ届けられます。遂には身柄を拘束され、懇願むなしく妻をも捕らえられ、一体何をなし得たかったのか。
恐らくただ、自らの良心を自らの意思で発露させることが目的だったのでしょう。
原作小説の題名は「Berlin in Alone」らしいのですが、この方がよりこの映画らしかった気もします。
この夫婦の存命中、活動に同調するものは誰一人おらず、二人は孤独ともとれます。
しかし、作中「良心」が良心として機能を発揮できているのはこの夫婦しかいません。正義こそ唯一の主と掲げていた判事は目の前の理不尽に太刀打ちできず、柔らかな命を救うこともできず、機能をすっかり失った司法の場に立ちすくむことしかできません。
警部は矜持をボコボコにされ、おのがまま動くこともできず、遂には市民の自殺幇助に手を貸してしまう。
良心を発揮することができず、良心を良心として受け入れられないことは人間にとって大きな不幸なんだと思いました。
全体的にやるせないのと、夫婦ふたりだけ締感の極みのような解放されたような雰囲気が漂うのですが、ただひとつ、夫と法廷で再会した妻の表情が秀逸の一言に尽きます。
「会いたかった、行きましょう」といったシンプルな喜びが溢れる演技に、この人はとてつもない女優なんだと見せつけられました。
あまり演技や役者に注目することがないものですから、忘れないように。

人間の良心とはどこにあり、どこから生まれるのか。この夫婦の良心の種は、息子への愛情と息子の死でした。わたしはずっと映画の世界でも、人間の良心の種を探している気がします。

ラ・ラ・ランドを見ました

日本で初めてプレミアムフライデーが試験的に実施された日と同時に、ラ・ラ・ランドという映画が公開されました。それから一ヶ月経過してもなお心を掴んで離さない映画、ラ・ラ・ランドについて思ったことをつらつらと書いていこうと思います。ネタバレもします。

さて、私はミュージカル映画がとても好きです。能の経験も助長しているのか、人間とは喜びや哀しみを歌い上げ、心が舞い上がるときは踊り出すものだという直感が根底にあります。
そんな個人的な背景もありつつ、このラ・ラ・ランドは心の琴線に非常に訴えかけてくるたまらない映画でありました。

初めて観たとき、まず初めに思ったことは、この映画の「夢」とは叶えるべき目標という意味ではないということです。夢をそのように理解し、この映画を人生の目標を叶えるための原動力となることを期待して見るとえらいことになると思います。では、ラ・ラ・ランドにおける夢とは一体何か。
わたしの中でこの「夢」と結び付いたのが、「この世界の片隅に」で主人公・すずさんの夫が放った、「過ぎた事、選ばんかった道、みな、覚めた夢とかわりやせんな。」という一言です。
この、実現されることのなかった可能性が放つ郷愁が、映画全体を包み込んでいる胸が狂おしくなるほどの切なさとしっとりとした雰囲気の正体でもあるでしょう。

この郷愁はまた、これまでのハリウッドミュージカルへの懐かしさでもあると思います。
随所に見られるハリウッドミュージカルのオマージュ、かつて映画館で鳴り響き観客の胸を踊らせたであろうタップダンスの音。
昨今のブロードウェイやイギリス発のミュージカルに圧されつつつあるハリウッドミュージカルにとって、この映画は過去の象徴であり、また若き天才たちの挑戦を斬新なカメラワークによって捉えられ、見事に花開いた新たな可能性であると感じました。
(ブロードウェイミュージカルのRENTでも、ロイドウェバー作のミュージカルが一人勝ちする状況を疎む描写がありましたが………。しかしロイドウェーバーが圧倒的な才能すぎるので仕方ないし、わたしはどれも好きです)
このような物語がロサンゼルスの定番デートスポットで繰り広げられるというのですから、アメリカの人々のこの映画に対するいとおしみは並並ならぬものでしょう。
わたしはアメリカ人ではないので、そのレベルの感情移入がちょっと羨ましいような、ずるいような、そんな気がします。

選ばなかった道、ハリウッドミュージカル映画への懐古といった点が、鑑賞前に描いた明るいイメージとは異なる印象を抱かせている。それがまたこの映画の評価を二分している原因でもあると思います。
重ねて主張しますが、ラ・ラ・ランドの「夢追い人」とは、目標に向かって一心に努力できる人々のことではありません。
ミアは女優になりたいけれど、どこか積極性にかけ、目標を叶えるためならやりたくないこともやる泥臭さはありません。共に過ごせない寂しさを割りきることもできず、セブの成功に気後れしてる様子もみられます。
セブもまた、ジャズを様々な人々に聞いてもらうためのアイデアをはね除け、自分だけの立派に凝り固まってしまった理想に固執し、柔軟さがないがゆえに理想と現状の狭間に苦しむ男です。ポピュラーな曲でまず己に関心を持たせ、そこから自分が本当にみせたいものに導入させていくのは王道の手段です。恐らくセブは意図せずそのコースに進むことができましたが、頑なな意思に己を見失いミアの愛情を軽視する発言もしてしまいます。
夢だけをむしゃらに、ストイックに追い求めることができたらどんなにいいでしょうか。寂しさも自分を見失う焦燥もすれ違うもどかしさも、すべて目標の達成につながっていると疑いもなく信じられたらどんなにいいでしょう。
恋愛にかまけずオーディションまでに作品をリサーチしたり、自分の活動は目標達成の第一段階だと先を見据えることができたなら。数々の挫折を乗り越えられたなら。お互いの忙しさを成功の証だと喜び、特等席に彼がいなくても気にしない心の強さがあれば、国が離れても心を交わし、未来でも一緒にいられたのでしょうか。
彼らにはできませんでした。目標だけ追えられればそれだけでいいのに、そうはできず傷つけあい、それでも懲りずに夢を見る愚かな人々です。夢を叶えることはできました。満足しているはずなのに、これでいいはずなのに、それでももうありえないだろう「if」を考えずにはいられない。
もしあの時、あそこにいることができたなら。もしあの時人の誘いに乗らなければ。もしも一緒に、パリまで飛び出すことができたなら。たった一回のキスで変わっていたかもしれない未来を、激流のように溢れる無限のifを、未練がましくも考えずにはいられないのは愚かしいことかもしれません。でもそれこそがおそらく、他人を求めた傷であると同時に、人を愛したということの証なのだと思います。
宇多田ヒカルのpassionにあるように、「私たちにできなかったことをとても懐かしく思う」という言葉がありますが、これもラ・ラ・ランド最後の10分に覚える強烈な郷愁に非常によく繋がる言葉だと感じました。色々と勝手に関連付けて申し訳ない。
恋焦がれた未来だからこそ哀しく、いとおしく懐かしい。でも懸命に生きてたら残骸はきっといつか輝き、誰にも知られない自分だけの輝く種になる。
それはミアとセブの二人だけに限りません。若者が寄り付きにくくなったジャズ、ハリウッドミュージカルの栄光と不遇の時代を経、数々のオマージュを取り入れたラ・ラ・ランド。今でこそ懐古の象徴のように見えますが、斬新な手法とレトロさの天才的なバランスで作り上げられたこの映画は、必ず新たな誰かの道標となり、人々に長く愛され欠かさぬ存在になることを確信しています。
私が幼い頃、名作劇場で見た雨に唄えばのように、サウンドオブミュージックのように、これから生まれてくる世代に多くの感銘を与えてくれるでしょう。
その誕生の瞬間を見ることができたことへの喜び、生きることへの喜びは止むことはなく、この作品が長らく人々に愛されることを願ってやみません。
未来へのときめきと共に、冒頭で歌われるanother day of the sun、特に「And someday as I sing my song,.A small-town kid'll come along. That'll be the thing to push him on and go go」これはつくづくこの作品をよく表していると、ただ感心するばかりであります。